●紙芝居「江戸に象が来た」 製作:ささご会

 No.1
江戸に象が来た。
昔し昔し、二百七十年前の江戸時代
「えっ、そんな昔に?」
「この中野に象がいたなんて!」
「本当?本当の話!?」
そう・・・ 本当にあった話です。
遠い遠い南の国はベトナムから、雄と雌の二頭の象がはるばる海を渡って来たのです。
さあ・・・ その象のお話をしましょう。


 No.2
時の八代将軍、徳川吉宗はたいへん動物が好きでした。
それを聞いた中国の貿易商の大威という人が
「将軍に象をさし上げたいのですが」
と申し出て来ました。
家来たちは、みなでいろいろと話し合ったあげく、象をもらうことにしたのです。

 No.3
その話から一年半がたちました。中国の大きな帆船が、長崎の港に姿を見せたのです。
「象を乗せた船がきたぞ・・・」
「おーい、船が来たぞ」
「船だ、船だ、船が来たぞ・・・」
と港はおおさわぎ。
「将軍様に差し上げる象を、連れて参りました」
象を見た長崎の役人は、ブラリー、ブラリー と長い鼻を振るこの大きなけものを、ただ遠まきに、こわごわ見ているだけでした。

 No.4
なにしろ、象は大きくて重いです。いろいろとみんなで話し合って、大きな丈夫な橋を作ることにしました。
橋が出来上がると、ベトナムの象使いが乗った二頭の象が船からノシノシと姿を現しました。
「やあ、あれが象か・・・」
「わあ、大きい!化物だ・・・」
港にいる役人たちから驚きの声があがりました。

二頭の象は町の中を通り、中国人が住む唐人屋敷に作られた象小屋に入りました。

 No.5
象は日本の気候に慣れるまで、しばらく唐人屋敷で暮らすことになりました。
ところが、どうしたことでしょう。雌の象が物を食べなくなり、だんだん元気がなくなってきました。
係の役人たちは、将軍に献上する象を死なせては大変とあって、一所懸命に看病しました。
しかし、みなの介護の甲斐もなく、とうとう雌の象は三ヶ月目に死んでしまいました。
きっと長い船旅で疲れたのでしょう。
こうして、雄の象だけになってしまいました。

 No.6
桜咲く春がやって来ました。
象の一行が、いよいよ江戸に向かう時が来ました。
江戸への旅の最初の難関は、九州と本州のあいだにある関門海峡です。
そこで象を、大きな石を運ぶ底の平らな船に乗せて運ぶことにしました。しかし、潮の流れで大揺れとなり、象が暴れだし、みんなはそれは大変な思いしました。
そこで象とともに、江戸までの長い道のりを、歩いていくことにしました。総勢十四人の一行はまた、のったり、どったりと、象のペースに合わせて進んでいきました。

 No.7
いよいよ象がまちの中に姿を現しました。
「象さまのお通りにつき、注意すべきこと」
と書かれた立て札がたてられました。
一、街道を清掃する。また、象の飲み水を用意し、村役人が番をすること。
二、象を驚かすといけないので、寺の鐘をついてはいけない。
三、牛や馬を街道から一キロ以内に置かないこと。
四、犬や猫も家の中につないでおくこと。
五、見物人は家の外に出てはいけない。
など。
臆病な象のために大変なことになりました。

 No.8
長崎を出発してから一か月もかかって、やっと象の一行は京都に入りました。
ここで象は、旅の汚れを洗い落としました。
そしてお化粧をしてもらって、きれいな姿になると、皇居に引かれていきました。
そこで、象は中御門天皇にお目にかかり、従四位という位をいただいたのです。

 No.9
京の都を出た象の一行は、このあといよいよ将軍の待つ江戸に向かって、歩き出しました。
行く先々で、象の評判は大変なもので、沿道に見物人が押しかけ、けが人が出るほどの騒ぎになりました。
さて、長い旅の間、象はどんなものを食べていたのでしょうか。

 No.10
体の大きい象ですから、一日分だけでも、お湯、水、藁、笹の葉、バナナの葉、米、草、くねんぼうというミカンに似た果物、それに麦まんじゅう・・・
象が通る街道の人々は、このたくさんの食べ物を、毎日用意しなければならないのです。
これは土地の人々にとって、お金の面でも、労力の面でもとても大変な負担になりました。

 No.11
さて象の一行は、静岡県の大井川まで来ました。ここは江戸までの道中の中でも、難所の一つと言われていました。
この時も、川の水かさが増し、流れが速く、すぐに渡ることができませんでした。やっと三日目になって渡ることになりました。
大勢の川人足たちが、肩を組んで川の流れをやわらげます。そしてその横を、れん台に乗った役人たちが、次々とゆっくりと川を渡っていったのです。

 No.12
やっと川渡りも無事に済み、いよいよ目指すは箱根の山・・・
山あり谷ありの難所の山越えです。
「これを越せば、江戸は目の前だ」
「がんばれ、がんばれ、もう一息だ」
梅雨どきのツルツルすべる山道を、象も役人も一所懸命に頑張りました。

 No.13
二か月余り歩き続けた象や役人たちも大変だったでしょうが、ベトナムからついて来た象使いのタンスーさんと、ヒヨメンさんは、もっと大変だったでしょう。
一行はくたびれて、箱根一泊の予定が、四泊になりました。
「お疲れさま・・・ ご苦労さーん」

 No.14
長崎から江戸まで七十五日。
歩いた距離は三百五十里。
やっと象の一行は、目指す江戸に着きました。
見えるは江戸城!
みんなは涙・・・涙・・・興奮と感激で一杯です。

今日はいよいよ将軍さまにお目にかかる日です。
「これが、遠い国から来た象であるか。待ちかねたぞ!」
将軍吉宗は、膝を乗りだすようにして、鼻の長い灰色の大きなけものに、目を見張りました。
象は前足を曲げ、一所懸命にごあいさつをしました。
「おお、見事!見事である。あいさつをしたのか、賢いのう!」
と、上機嫌です。

 No.15
将軍はそののちも、浜御殿にある象小屋にたびたび来ては、象に好物の麦まんじゅうを投げて行きました。
また諸大名や江戸町民にとって、この時代には珍しい象は、見世物となり、多いときは整理券まで出すほどでした。
ところが、一年を過ぎたころ・・・
この象を欲しい者がいたら申し出るように、というお触れ書きが出されました。
これは、象が毎日食べる餌代に、お金がかかりすぎたからです。
ところが誰一人として、象を欲しいという人は出て来ません。

 No.16
象は、そんな話が出ていることも知らず、毎日餌をたくさん食べては、大きなフンをポトリポトリと落としていました。
この大きなフンを見て
「ウ~ン、これは何か役に立ちそうだぞ」
と、独り言をいう者がいました。
それは、中野村で「みはらし」という茶店を出している源助です。彼は、象が江戸に来てから、浜御殿に餌を運んでいたのです。

 No.17
「そうだ、これを“はしか”や“ほうそう”に効く薬だといって、売り出してやろう」
と、考えついたのです。
当時江戸では、この恐ろしい病気がはやっていたのです。
源助は幕府の許しをえて、中野村の淀橋というところで、このフンを薬として売り出したのです。ところでこの薬、本当に効いたのでしょうか。

 No.18
象が浜御殿に来てから十年がたちました。小さかった象も大きくなりました。
雄の象は、一般に十才を過ぎると、性格が乱暴になると言われています。
それを聞いた将軍、吉宗は
「誰か欲しい者がいたら、やってしまうがよい」
と怒って言いました。
こうして凶暴になった象を、象のフンを売り出した中野村の源助にやることになったのです。

 No.19
源助は、幕府から飼育代として、年に百三十両をいただけるし、入場料を取ることも許されたのです。
彼はたいへん喜び、堀をめぐらし柵を構えた立派な象小屋を作りました。
その象小屋があったのは、現在の中野区本町三丁目にある朝日が丘公園のあたりなのです。
ここでもまた、近くに住む人々たちが珍しい象を見ようと、競って見物にやって来るようになりました。

 No.20
象小屋は毎日のように、南国から来たという、鼻の長いこの象を見たくて、見物人があちらこちらからやって来ました。
この様子を見ていて源助は、また名案が浮かびました。
この見物人めあてに、黄、緑、白の三色饅頭を作って売り出してみよう。
こうして売られるようになった饅頭は、一文で売られたため、〈中野の一文饅頭〉と言って有名になっていきました。


 No.21
象、象、一文饅頭と、あれほど評判だった象小屋にも、日がたつにつれて、見物人が来なくなりました。
また一方、南国生まれの象も、年とともに日本の冬の寒さに耐えられなくなって来たのか、日増しに元気がなくなってきたのです。
源助は、お饅頭に薬を入れて食べさせたりしましたが、いっこうに良くならず、その年の暮れに雄の象も、死んでしまいました。
これは、この象が中野の源助に飼われるようになって、わずか一年八ヶ月目の、寛保二年十二月一日のことでした。

 No.22
あれほど評判を呼んだ象も、最後は寂しくかわいそうなものでした。
その後、源助は死んだ象の皮を幕府におさめ、自分は頭の骨と、二本の牙と、鼻の皮を貰い受けました。
そのころでは、生きた象を見ることが出来なかった人もまだ多かったので、せめて骨や牙だけでもと珍しがられたのです。
源助は、それからも、この象の骨や牙を評判の見世物にしたのでした。
ところがそのうち、源助も病気になり、五年ほど寝付いて、とうとう死んでしまいました。

 No.23
皆さんは、中野坂上にある宝仙寺という大きなお寺を知っていますか?あの象が死んでからずーっと後に、この宝仙寺に祐厳という立派な和尚がおりました。
祐厳和尚は、あるとき、源助の子孫がもっている象の骨や牙のことを聞いて
「わしの寺で、それを貰うことにしよう。そしてよーく供養をし、寺の宝物にしよう」といって引き取りました。
そんな変わった宝物をもっている寺は、日本中探したって、どこにもありません。

 No.24
さて、時はどんどん過ぎて行きます。
やがて太平洋戦争が始まり、象の骨のことなど、思い出す人もいなくなりました。
昭和二十年五月二十五日のことです。
中野区にも、アメリカのB29による空襲が始まり、焼夷弾が雨のように降って来ました。
もちろん、中野区ある宝仙寺のあたりにも焼夷弾が落とされ、宝仙寺の大きな本堂も、たちまち真っ赤な炎に包まれてしまいました。
あくる朝、本堂の焼け跡から、大きな炭のようなものが一本見つかました。それはあの象の牙だったのです。
これは、いまから二百七十年も前の江戸時代に、日本に「将軍ご用の象」としてはるばる海を越え、この中野の地で命を終えた象のお話しでした。